竹内明太郎が運営した茨城無煙炭鉱跡調査
竹内明太郎が運営した茨城無煙炭鉱の詳しい情報はこちら 当会発刊の冊子より茨城無煙炭鉱
2021年1月27日、「ふたたび茨城無煙炭鉱を探る」はこちらをクリック
2月20日(月)NPO建物保存会のメンバー4人で茨城無煙炭鉱の調査に出かけました。茨城無煙炭鉱は明治中期から大正にかけて竹内綱・明太郎父子が運営した炭鉱です。龍ケ崎の竹内農場はこの炭鉱に食糧を供給していたのです。
閉山から半世紀が経過し、茨城無煙炭鉱第三鉱跡(中郷鉱-北茨城市中郷町日棚)に立ち寄ると、炭鉱そのものの遺構は見られませんが、小高い山の麓に選炭所等の炭鉱関連施設が廃墟と化しておりました。これらは偶然出会いました地元の猟友会の方にお聞きしたところ、戦前からの施設で、小高い山はボタ山であることが分かりました。
中郷鉱はバス停の三鉱という名称から察すると、茨城無煙炭鉱時代につけられた三鉱という炭区名が親しまれ長年定着しているようです。往時の炭鉱と住民の密接な関係が伺われます。
中郷鉱跡の近くに旧十石隧道という史跡があります。これは大正6(1917)年に茨城無煙炭鉱第二鉱と同第三鉱を結ぶために敷設された曳索軌道のトンネルです。第二鉱から曳索軌道で第三鉱に運ばれた石炭は、ここから同じく大正6年に敷設の第三鉱専用曳索軌道により、第三鉱で採炭された石炭とともに南中郷停車場まで運ばれたそうです。
次に、明治44(1911)年に敷設の第二鉱と南中郷村大塚(現北茨城市磯原町大塚)を結ぶ曳索軌道の探索をしました。この路線は、第二鉱で採炭された石炭を南中郷村大塚まで運び、ここで山口炭鉱専用線に積み替え磯原停車場へと運ぶための第二鉱専用線でした。ところが大正6年に第二鉱と第三鉱を結ぶ曳索軌道が開通したため廃線になったそうです。
現在も、磯原町大塚及び隣接の木皿地区には山口炭鉱専用線の枕木と鉄橋跡及び重内(しげうち)炭鉱専用線のレールが確認出来ます。しかし、廃線時期が早かった茨城無煙炭鉱軌道はレールの痕跡すらありません。太平洋戦争時の金属類回収令によって国に供出されたと考えます。
最後は、茨城無煙炭鉱の原点となった竹内綱が開削の第一鉱が所在した華川町小豆畑地区を訪ねました。かつては賑わっていた華川の街並みは、今は炭鉱町の面影すらありません。地元の人に尋ねても、ここに炭鉱があったことさえ知らない人が多いようです。大正14(1925)年、大倉鉱業に売却後まもなく閉山したため忘れられた炭鉱といってよいでしょう。唯一、炭鉱らしさを感じた場所は、華川小学校近くの石炭層の断層でした。