ふたたび茨城無煙炭鉱跡を探る

1月27日(水)NPO龍ケ崎建物保存会メンバー3名及び竹内明太郎調査で龍ケ崎に来られたフリーライターさんの計4名で、茨城無煙炭鉱(竹内明太郎運営)があった北茨城市を訪問しました。

北茨城市歴史民俗資料館に立ち寄り、昨年度の調査では不明であった茨城無煙炭鉱第一鉱及び第二鉱の所在した場所の大雑把な情報を得て、炭鉱住宅を探したところ、華川町芳の目地区に第一鉱の炭鉱住宅を見つけることが出来ました。これはわがNPOにとっても大きな収穫となりました。

茨城無煙炭鉱第一鉱跡(華川町芳の目地区)
竹内綱が明治29年、芳の目(現小豆畑)に開坑した茨城無煙炭鉱(当初は茨城炭鉱)付近には炭鉱住宅が約20棟ほど残っていて、ほとんどが空家と思われますが、中には修繕を繰り返して今も現役で使われている棟もありました。住居人からお話を聞くことが出来ましたが、閉山後の入居者だったので炭鉱の情報を得ることは出来ませんでした。なお、道を挟んで向こう側にも炭鉱住宅が残っていると教えられ、探してみると、もっと古い住宅群があり、ほとんどが廃屋状態となっていました。その中の一棟は屋根瓦や壁の状態から、おそらく竹内明太郎が運営した当時の住宅がそのまま朽ちたものと思われます。

旧茨城無煙炭鉱 炭鉱住宅
芳の目地区炭鉱住宅
旧茨城無煙炭鉱 炭鉱住宅
芳の目地区炭鉱住宅
聞き取り調査
芳の目公民館
芳の目公民館
旧茨城無煙炭鉱 炭鉱住宅
芳の目地区炭鉱住宅
旧茨城無煙炭鉱 炭鉱住宅
少し離れた場所に、もっとも古い芳の目地区炭鉱住宅
もしかして竹内明太郎時代のもの?
茨城無煙炭鉱 第一鉱ぼた山
第一鉱ぼた山

磯原町木皿地区の炭鉱専用線跡
昨年度の調査で私たちは確認済みですが、初見のフリーライターさんに見ていただくとともに、私たちも新たな発見を期待して路線跡等をじっくり見ました。
重内(しげうち)炭鉱から磯原駅を結ぶ重内炭鉱専用線は車道に剥き出しになっている1本のレールと枕木の残骸、木皿川に架かる鉄橋を再度確認しました。私たちが以前調べた認識では、炭鉱専用線はロープで貨車を引っ張る曳索(えいさく)軌道だと思っていましたが、今回の聞き取りで地元の方から蒸気機関車が引っ張ていたと教えられ、軽便鉄道であったと認識を改めました。また、この木皿川で石炭を洗浄していたという新たな情報を得ることが出来ました。
茨城無煙炭鉱第二鉱(中郷石岡)と木皿を結ぶ茨城無煙炭鉱専用線(明治44年~大正6年)は廃線になった時期が早く、路線跡に細い道が残っていますが、鉄路を思わせるものは何もありません。茨城無煙炭鉱第二鉱で採炭された石炭は、専用線で木皿まで運び、木皿川で洗浄し、山口炭鉱専用線に積み替え磯原駅へ運んでいたと思われます。大正6年には第二鉱と第三鉱(中郷日棚)を結ぶ茨城無煙炭鉱専用線が出来て、第二鉱の石炭は第三鉱を経由して南中郷駅へ運ばれることになりました。おのずと、第二鉱と木皿を結ぶ専用線は廃線となったわけです。
一方、山口炭鉱から磯原駅を結ぶ山口炭鉱専用線はレールこそ残っていませんが、線路跡が車道とは一段高くなっていて、枕木と鉄橋跡を確認することが出来ます。山口炭鉱と茨城無煙炭鉱は無煙炭の販売において共同で茨城無煙炭共同販売所を設置するなど、友好関係があったようです。だから茨城無煙炭鉱は木皿~磯原駅間を独自の路線を設置しないで山口炭鉱専用路線に便乗していたと思われます。

重内炭鉱専用線 枕木の残骸
重内炭鉱専用線 鉄橋(現在は歩道)
茨城無煙炭鉱専用線 路線跡
第二鉱から積んだ石炭をここで山口炭鉱線に積み替えていた
山口炭鉱専用線 路線跡と鉄橋跡
茨城無煙炭鉱も大正6年までこの路線を使用

茨城無煙炭鉱第二鉱跡(中郷石岡)と旧十石隧道
第二鉱跡は前回も大体の場所しか分かりませんでしたが、今回歴史民俗資料館で確認出来たのは、石岡小学校の近くの山ということで、最近まで炭鉱住宅が残っていましたが、既に取り壊しになったということです。

第二鉱と第三鉱の中間に位置する旧十石隧道は、元々は大正6年に開通した隧道で、竹内明太郎が運営する茨城無煙炭鉱専用曳索軌道で第二鉱と第三鉱を結ぶためのものでした。この隧道が出来る前は第二鉱で採炭された石炭は木皿経由で磯原駅に送っていましたが、この隧道のお陰で第三鉱経由南中郷駅へと流れが変わりました。
なお、隧道入り口の刻印は昭和25年竣工となっています。それは炭鉱専用線としての機能が終わり、新たに人が行き来する隧道として再出発するために大幅な拡張工事が行われた年を指していると思われます。その隧道も、平成7年に新十石トンネルがに開通し役割を終えます。現在はコンクリートで入り口が塞がれています。

第二鉱跡付近
旧十石隧道

第三鉱跡(中郷日棚)
第三鉱跡は車道から遺構とボタ山が確認出来きます。しかし遺構がいつの時代のものか分かりません。なお、大正6年に十石隧道が出来てからは第二鉱から送られてくる石炭をここで集積し第三鉱の石炭とともに、茨城無煙炭鉱専用線で南中郷駅に運搬していたそうです。
茨城無煙炭鉱は大正14年に倒産し、営業権は大倉鉱業に引き継がれますが大倉鉱業も間もなく経営不振に陥り、一鉱は閉山となり、二鉱と三鉱を併せて中郷鉱と呼ばれるようになります。その後中郷鉱は何度か経営者が変わり昭和 46年に閉山となります。
なお、近くには「三鉱」というバス停があります。三鉱とは茨城無煙炭鉱時代の炭区名で、竹内明太郎が運営した三鉱を懐かしむ住民の思いが時を超えて伝わって来ます。

第三鉱ぼた山
第三鉱遺構

南中郷駅前
竹内明太郎が芳谷炭坑に唐津鐵工所(唐津プレシジョン)を、遊泉寺銅山に小松鉄工所(現コマツ)を創設したように、茨城無煙炭鉱にも南中郷駅前に千余坪の敷地を買収し、南中郷鉄工所を創設する予定でした。そのための地鎮祭が大正8年に行なわれたという記録が残っています。南中郷鉄工所の予定地が駅前のどのあたりなのか?おそらく改札口のある東口と見当を付けて写真を撮りました。

南中郷駅前
南中郷駅

もっと、茨城無煙炭鉱について知りたい方はこちらをご覧ください。
https://tatemono-hozon.net/data/booklet06s.pdf 
(冊子「竹内明太郎が残したもの~龍ケ崎の赤レンガ西洋館」より茨城無煙炭鉱の頁)

茨城無煙炭鉱炭鉱マップ

炭鉱専用線の配置は大雑把です。