保存推進事業top 竹内明太郎別荘  筑波庵  明治の古民家  旧高松邸石蔵   旧諸岡家門塀   旧小野瀬邸   小宮山邸 

竹内明太郎別荘top 冊子刊行  竹内農場 竹内明太郎 竹内綱 竹内鉱業

保存推進事業 竹内明太郎別荘(旧竹内農場赤レンガ西洋館)

竹内農場

稲敷郡馴柴村大字若柴字長山前(現茨城県龍ケ崎市 若柴町字長山前)の地は西に蛇沼を有し、明治末期までは松と椚の混合林からなる女化原といわれる未開の地でした。
大正元(1912)年馴柴村に払い下げられた未開拓の官有林を竹内綱と土田謙吉が共同で購入しました。竹内と土田兼吉の関係性は不明ですが、土田は上郷村(現つくば市)出身の開拓事業家で、県内だけでなく北海道の開拓にも事業をすすめ、茨城県知事や大日本農業総裁から表彰されたことがあります。そうした土田と、茨城県内に開拓農地を求めようとした竹内が意気投合し、どちらかが共同購入の話を持ち掛けたと考えます。
共同購入のうち竹内分は風光明媚な蛇沼に隣接し、良三(明太郎次男)、廣(綱七男)、直馬(綱四男) の3 人に分割されます。そしてこの土地に綱の事業を引き継いだ明太郎が、竹内鉱業の付属施設である竹内農場を開設します。

龍ケ崎市の調べにより明太郎の日記が宿毛市の資料館に保管されていることが分かり、その中から当農場に関係する部分のコピーを取り寄せたとのこと。これにより新事実が次々と判明しております。日記によると、明太郎は多忙の中でも妻の亀井と共に度々ここを訪れております。竹内鉱業は他にも農場を抱えており、関係者は当地の農場を牛久農場と呼んでいました。

農場の目的は、竹内鉱業傘下の茨城無煙炭鉱(現・北茨城市)への食糧供給であるとともに、西洋を模倣した近代的な農場経営の試みでした。諸々の農場運営は農業大学出の国光亀治支配人が行いました。国光は四頭引きの洋式犁を用いた大農場経営を試みたようです。10人程の農夫を雇用し、そのほかに日雇い農夫もいました。農夫の大部分は貧窮する女化開拓民を雇ったようです。こうして生産された大麦、小麦、甘藷、馬鈴薯が茨城無煙炭鉱に送られました。当時の茨城無煙炭鉱は常磐炭田南部の中で最大規模を誇り、炭鉱に従事する人と家族を合わせて総勢4,000人を超える大所帯だったといいます。
農場は西洋館の東側に一反歩区画の畑地が10枚並び、他に桑園、桐畑がありました。一反歩区画の畑地はいわば農事試験圃で、国光により次々と新しい試みが行われました。梨、桃、栗、落花生、白菜、西瓜などが作られ、そのうち黄色い西瓜は大変な話題となり、直売も行われたといいます。西洋館の南側は放牧場で、牛乳取扱所、牛舎、厩舎、堆肥舎、第一、第二農夫舎、便所、浴場、事務室、農具舎、収容舎、住宅などが並んでいました。
農場の周囲は土手がめぐらされ、からたちの木が植えられ、東側の農場入口から桜並木が続いていたといいます。

農場は大正8年頃が最盛期で、鉄道を引く計画もあり、実際線路材も運ばれ積まれていました。しかし、大正末期の炭鉱不況のあおりで、大正13年頃は農場は小作化し小作料だけが竹内家の収入となっていました。昭和3年(1928)農場の運営母体である竹内鉱業が廃業となります。それに伴い農場は小作人に任せて、関係者は昭和5、6年頃に東京等へ引き上げていきました。
その後、農場の納税管理人は馴柴村役場の紹介により八原村の塚本幸三郎氏が行いました。戦後GHQの政策により、農地の総ては小作人に譲渡され、竹内農場は完全に消滅しました。

茨城自然百選に選ばれたこともある蛇沼。この場所は現在、私有地に付き無断立入り禁止
写真をクリックすると別タブが開き大きくなります。

参考資料 女化 土づくりムラ苦闘百年(エリート情報社)/ 龍ケ崎市調査報告