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竹内 綱 

竹内綱は天保10(1840)年土佐藩家老・伊賀氏(宿毛山内氏)の家臣・竹内庄右衛門吉管の子として土佐国宿毛( 現高知県宿毛市)に生まれました。
23 歳で目付役として大坂に宿毛蔵屋敷を建てるなど主家の財政再建に尽力し、若くして実業家としての才能を発揮しました。
明治に入ってから後藤象二郎の引き立てにより大阪府少参事や大蔵省六等出仕をつとめます。
明治7(1874)年、後藤から蓬莱社の高島炭鉱の経営を任され鉱山開発を行います。しかし明治14(1881)年、蓬莱社は多額の負債を背負い、これらの炭鉱を三菱の岩崎弥太郎にやむなく譲渡します。
その後、新たに明治18(1885)年、佐賀県東松浦郡北波多村(現唐津市)に芳谷炭坑を開鉱します。政治家としては、明治14(1881)年、板垣退助を総理とする自由党が結成され竹内も参加します。明治15(1882)年、板垣が岐阜で暴漢に襲われ「板垣死すとも自由は死せず」という名文句を吐いた時、彼を抱きかかえたのは綱でした。
広がりつつあった自由民権運動に危機感を抱いた第1次伊藤内閣は、明治20(1887)年12 月25 日に保安条例を公布し、竹内はこの適用を受け東京から3 年間の退去を命ぜられます。このとき彼が身を寄せたのが横浜太田町(現在の横浜市中区)の吉田健三邸でした。
綱は貿易商で実業家の吉田健三と親交が厚く、後に内閣総理大臣を務めた五男・茂を吉田家へ養子に出しています。帝国議会が成立することとなり、綱も明治23(1890)年に第1 回衆議院議員総選挙に立候補して当選し、自由党土佐派を率いました。しかし、在職はわずかに1期で、次期選挙には再出馬を断っています。一方で、明治25(1892)年の第2 次伊藤内閣誕生とともに、伊藤博文首相・板垣退助を説いて政府と議会多数派の自由党との連携を策しています。
綱は実業家としても多くの実績を残しました。明治29(1896)年、 渋沢栄一らと共に京釜鉄道の発起人となり、設立後常務取締役を務め、明治36(1903)年京仁鉄道を京釜鉄道に合併させております。身近なところでは常総鉄道(現関東鉄道)の初代社長を務めました。
なお、芳谷炭坑を始め各地で手がけた鉱山業は長男明太郎に受け継がれます。

参考文献 宿毛明治100 年祭施行協賛会(1968)『宿毛人物史』
郷土史家鈴木久氏調査資料