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保存推進事業 国登録有形文化財旧小野瀬邸
小野瀬忠兵衛
千鰯商人小野瀬家、筆屋新助と筆屋忠兵衛
初代は筑波の麓北条(ほうじょう)の人と伝えられ、すでに寛政年問(1790年代)には商いを始めていたようで、その子新助は若くして家督を経ぎ、筆墨、米殻を商い、天保年間(1830年代)30代で一代にして「巨金之富」を築きました。
文久2年(1862)年には筆屋(ふでや)新助(しんすけ)として上町天王社(八坂神杜)拝殿再建の7人の世話人に名を連ねて多額の寄進を行い、仙台藩御用達の12名の豪商にも小野瀬新助の名が見えます。新助はすでに弘化4年(1846)、長女に養子を迎え忠兵衛(二代)を襲名させ、早世した長男新吉の跡には孫娘に藤蔵河岸の回漕問屋から養子を迎えました。
明治27年発行の『城南四郡名家揃』には「絞油製造業、肥料・塩・衡器販売所筆屋小野瀬忠兵衛(三代)」と「和漢洋書籍・酒類・肥料販売筆屋小野瀬謙次郎」(小野瀬昇氏曾祖父)がそれぞれ筆屋として肩を並べています。
龍ケ崎の筆忠
三代忠兵衛は明治39年、龍崎農商銀行の創立発起人に、のち頭取となります。四代忠兵衛は肥料・塩元捌,度量衡販売に加え、スタンダード石油代理店となり「龍ケ崎の筆忠」として知られ、龍崎農商銀行が五十銀行(常陽銀行の前身)と合併するや同行取締役となります。
小野瀬忠兵衛(五代目)
五代目小野瀬邸当主 実業家、政治家
明治32年(1899)稲敷郡龍ケ崎町(現龍ケ崎市)生まれ、 昭和52年(1977)没
茨城県立土浦一高出身、慶應義塾大学理財科を卒業し、興亜製作所社長、茨城県塩業株式会社取締役を務めます。
茨城県肥料卸商業組合、竜ヶ崎地方生活必需品配給統制組合、竜ヶ崎地方食料品配給統制組合、竜ヶ崎地方食糧営団格理事長を務めます。
昭和21年(1946)第22回衆議院議員総選挙に茨城一区から出馬し当選し以降連続2期務めます。その間、衆議院経済安定委員長となり、茨城県司法保護委員を務めます。そのほか日本進歩党院内総務、民主党民情部長、民主自由党会計監督を務めます。
その後、全国主食集荷協同組合連合会会長、社団法人全集連保証協会理事長、茨城倉庫社長、龍ヶ崎信用金庫理事長などを歴任します。
黄綬褒章、紺綬褒章を受章。 龍ケ崎の発展のため尽くしました。
参考文献:郷土史研究家鈴木久氏資料
衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年