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筑波庵top 杉野翠兄 保存することの意義

保存推進事業 筑波庵(杉野翠兄旧宅)

杉野翠兄

杉野家

屋号伊勢屋と称した豪商で、当主を代々杉野治兵衛と名乗りました。

初代治兵衛は伊勢国河芸郡玉垣村(現三重県鈴鹿市)から江戸初期に飴屋として龍ケ崎に移りました。その後油商となり、屋号を伊勢屋と称し、上町辻(現NTTビル)に屋敷を構え一代にして豪商となりました。新田開発にも積極的に取り組み、龍ケ崎町歩(現稲敷郡河内町)を開拓しました。

三代治兵衛の時の享保20年(1735)には70町歩杉野家一人持ちになっています。

五代治兵衛の時、大統寺建替えの際は50両の寄付を行い「永代軒号居士大姉号」を許されています。「軒号」とは文人・茶人等の雅号として用いられたもので、杉野家が代々文人の家であることを示しています。

六代治兵衛(俳人杉野翠兄)の晩年、一時衰退した時期があったようですが、幕末期に再び家運を盛り返し、安政3年(1856)8月の台風で大破した天王社(八坂神社)の拝殿を、文久2年(1862)の再建の際には寄進筆頭の10両の寄付を行うなど、龍ケ崎を代表する豪商となっていました。

六代治兵衛(杉野翠兄)

杉野翠兄は宝暦4年(1754)、龍ケ崎村の油商を営(いとな)む杉野治兵衛家に生まれます。家業を継ぎ世襲名杉野治兵衛を名乗りますが、その傍ら江戸に出て松尾芭蕉の流れを汲む俳人大島(おおしま)蓼(りょう)太(た)の弟子となり、江戸俳諧で活躍します。

天明元年(1781)、蓼太及び弟子2人を龍ケ崎に招き、数日間滞在中4人で筑波山に登りました。蓼太著作「筑波紀行」には、その時の4人でうたった36句があります。

鴛(おしどり)の巣も かけてたのむや 筑波山(蓼太)

つもる清水の 爰(ここ)みなの川(翠兄)  などであります。

翌年その記念として筑波山の鳥居傍に嵐雪の碑を建てます。嵐雪とは大島蓼太の師、服部嵐雪のことで、このことがきっかけとなり翠兄への入門者が増えました。そして、翠兄は弟子の教育の場として龍ケ崎上町に筑波庵を建てました。弟子の数は数百人と言われ、常陸、下総、下野に江戸俳諧をひろめました。
筑波庵の敷地には 嵐雪忌に翠兄が建てたと思われる嵐雪句碑があり「めい月や柳の枝を空へふく」と刻まれています。

蓼太の没後は江戸俳諧の雄の一人といわれ、小林一茶とも交流があったようです。文化10年(1813)60才で没し、龍ヶ崎の大統寺に葬られています。
法名は「狐峯軒徳府道隣居士」で、碑文によると、人となりは風流で俗を離れてあっさりしており、俳諧では滑稽でおもしろい佳い句をたくさん作ったとあります。
江戸での有名な俳人との交遊も盛んで、そのエピソードも紹介されています。「ある年、道彦や成美らと隅田川に舟を浮かべ百韻の連句を楽しんでいたとき、酒宴半ばで翠兄が突然剃刀をもって髪を剃り落とし、名を道隣と改め、一座のものをあっといわせた」という話です。豪商にして風流人であったればこそ奇行であり座興であったのでしょう。

筑波庵庭内の服部嵐雪句碑と龍ケ崎市・指定文化財 天然記念物寒山竹

参考文献 馴柴歴史講座「常総の俳諧と杉野翠兄ー 蓼太、翠兄、一茶との交遊ー」 鈴木久