「冊子制作」カテゴリーアーカイブ

竹内明太郎が運営した茨城無煙炭鉱跡調査

2月20日(月)NPO建物保存会のメンバー4人で茨城無煙炭鉱の調査に出かけました。茨城無煙炭鉱は明治中期から大正にかけて竹内綱・明太郎父子が運営した炭鉱です。龍ケ崎の竹内農場はこの炭鉱に食糧を供給していたのです。

閉山から半世紀が経過し、茨城無煙炭鉱第三鉱跡(中郷鉱-北茨城市中郷町日棚)に立ち寄ると、炭鉱そのものの遺構は見られませんが、小高い山の麓に選炭所等の炭鉱関連施設が廃墟と化しておりました。これらは偶然出会いました地元の猟友会の方にお聞きしたところ、戦前からの施設で、小高い山はボタ山であることが分かりました。

第三鉱遺選炭所跡
地元猟友会の皆様と一緒に

中郷鉱はバス停の三鉱という名称から察すると、茨城無煙炭鉱時代につけられた三鉱という炭区名が親しまれ長年定着しているようです。往時の炭鉱と住民の密接な関係が伺われます。

第三鉱炭鉱住宅跡?
バス停に第三鉱の名前が残る

中郷鉱跡の近くに旧十石隧道という史跡があります。これは大正6(1917)年に茨城無煙炭鉱第二鉱と同第三鉱を結ぶために敷設された曳索軌道のトンネルです。第二鉱から曳索軌道で第三鉱に運ばれた石炭は、ここから同じく大正6年に敷設の第三鉱専用曳索軌道により、第三鉱で採炭された石炭とともに南中郷停車場まで運ばれたそうです。

次に、明治44(1911)年に敷設の第二鉱と南中郷村大塚(現北茨城市磯原町大塚)を結ぶ曳索軌道の探索をしました。この路線は、第二鉱で採炭された石炭を南中郷村大塚まで運び、ここで山口炭鉱専用線に積み替え磯原停車場へと運ぶための第二鉱専用線でした。ところが大正6年に第二鉱と第三鉱を結ぶ曳索軌道が開通したため廃線になったそうです。

現在も、磯原町大塚及び隣接の木皿地区には山口炭鉱専用線の枕木と鉄橋跡及び重内(しげうち)炭鉱専用線のレールが確認出来ます。しかし、廃線時期が早かった茨城無煙炭鉱軌道はレールの痕跡すらありません。太平洋戦争時の金属類回収令によって国に供出されたと考えます。

重内炭鉱専用線跡
重内炭鉱専用線鉄橋跡
茨城無煙炭鉱専用線  操車場跡
レールの跡は跡形もありません
山口炭鉱専用線枕木跡
山口炭鉱専用線鉄橋跡

最後は、茨城無煙炭鉱の原点となった竹内綱が開削の第一鉱が所在した華川町小豆畑地区を訪ねました。かつては賑わっていた華川の街並みは、今は炭鉱町の面影すらありません。地元の人に尋ねても、ここに炭鉱があったことさえ知らない人が多いようです。大正14(1925)年、大倉鉱業に売却後まもなく閉山したため忘れられた炭鉱といってよいでしょう。唯一、炭鉱らしさを感じた場所は、華川小学校近くの石炭層の断層でした。

元炭鉱町 華川の街並み
水面に潜った石炭層の断層
第一鉱があった華川小豆畑から太平洋を望む

ハウジングアンドコミュニティ財団主催「成果発表会&まちづくりNPO交流の集い」

8月31日、ハウジングアンドコミュニティ財団主催「成果発表会&まちづくりNPO交流の集い」について
会場はお茶ノ水ソラシティ カンファレンスセンターRoom C。
NPO龍ケ崎建物保存会から5名が参加。
基調講和は”たいとう歴史都市研究会”代表理事 椎原晶子さんの「歴史文化をいかしたまちづくりとコミュニティ」と題した講和で、30年間にも及ぶ谷中のまちづくりと現状、特に古民家の再生について良い話をしていただきました。
活動成果発表は、昨年度の助成を受けた11団体のプレゼンで、助成金に対する成果発表と今後の課題について、1団体8分程度の制限の中で皆さん熱く話して頂きました。来年度は私たちの成果発表となりますので、参考になる事がたくさんあり刺激を受けました。
そして交流懇親会は立食パーティ。基調講和された椎原さんや、今回発表された様々な団体さんとお話が出来たので、今後に繋がることを期待しております。

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宿毛市立宿毛歴史館

6月13日~15日、宿毛歴史館にて、竹内明太郎の日記を拝見しました。

日記は明治人特有の崩し字で書かれていて、解読するのが大変です。ざっと見て分かったことは、農場の関係者は竹内農場のことを牛久農場と呼んでいたことから、てっきり最寄り駅を牛久と思いこんでいたのですが、佐貫で有ることがわかりました。
牛久駅からかつての 臨幸道を通り馬車で農場までと・・・、それはかってな想像でした。
では、なぜ牛久農場と呼んでいたのか疑問ですが、恐らく牛久シャトー繋がりで、牛久農場と呼んでいたと考えます。
佐貫駅から農場まで約3.5キロ、明治の人間なら普通に歩けますね。


竹内明太郎の貴重な遺品

遊泉寺銅山跡視察

コマツ発祥の地、竹内明太郎が社長を務める竹内鉱業が運営していた遊泉寺銅山銅山跡を視察しました。

入口にはコマツ創業の地記念公園があり、竹内明太郎像や遊泉寺銅山の歴史を記した石碑などが立っていました。

現在、小松市とコマツなど官民一体となって整備しているそうです。あと2年後には完成し、綺麗になるとのこと。

竹内明太郎像

案内板には道順が記載してあり、約一時間で一周出来るということで、銅山跡内に足を踏み入れてみました。

少し足を踏み入れた場所には石垣が連なり、住宅跡があったことが分かります。そしてところどころ煉瓦の残骸があり、また、巨大煙突と窯が残っていて銅山の面影を忍ぶことが出来ました。一周1時間ということでしたが、これがとんでもない悪路で、倒れた大木が道を塞いでいたり、途中からはまるで登山といったところを約1時間30分かけて一周することが出来ました。