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保存推進事業
竹内明太郎別荘(旧竹内農場赤レンガ西洋館)

龍ケ崎市民遺産

竣工当時の竹内明太郎別荘(龍ケ崎の赤レンガ西洋館)

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2020年8月4日付 建設未来通信に「~偉人と建設~竹内明太郎と西洋館」と題して掲載されました。
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PDF提供建設未来通信社
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https://www.kensetsumirai.co.jp/ 建設未来通信社HPアドレス

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所在地 茨城県龍ケ崎市若柴町字長山前 (現状は廃屋 /建物の中には入れません)

大正時代、蛇沼の沼畔に小松製作所の創業者であり、快進社(ダットサン-現日産自動車)の創業者の一人でもある竹内明太郎が経営していた竹内農場がありました。そして農場主の住居として建てられたモダンな赤レンガの西洋館は竹内農場のシンボル的存在で東京から有力な政財界人を招いたといいます。竹内明太郎の弟である吉田茂(戦後の総理大臣)も訪れたという記録も残っています。
そして1世紀近くの年月が流れ、モダンだった西洋館は床は抜け屋根は朽ち落ち、今は見る影もなくレンガ壁のみを残す状態で廃屋となっております。
この歴史ある西洋館が太陽光発電施設の進出で存続が危うくなっています。当NPO法人はこの建物の復元保存を願うと共に、史跡として、文化財としての価値を市民にアピールし、保存運動の大きなネットワークを創生したいと考えております。

現状の建物内部

龍ケ崎市民遺産 赤レンガ西洋館

竹内明太郎によって建てられた赤煉瓦の西洋館。大正8年(1919)9月に着工し、翌年の夏に完成しております。総工費は当時の価格で7万といいます。工事を請け負ったのは大田圓七建築部(東京市芝区西久保八万町)で、設計者は一流の建築家が想定されますが、現時点では解明されておりません。
煉瓦の積み方はオランダ積み(イギリス積み変形)で、産地は刻印により上敷免製であることが分かりました。これは渋沢栄一が深谷に設立した日本煉瓦製造で作られた、当時の国内最上級品ブランドです。

西洋館は、今までは竹内農場に付随する施設と考えられていましたが、明太郎の日記により、明太郎自身の別荘であることが判明しました。大正13年(1924)になると、明太郎の弟竹内直馬(綱四男)が所有し、直馬一家の住居となります。恐らく直馬一家は関東大震災で被災し、兄の明太郎より別荘を譲り受けたものと考えられます。直馬一家が越して来た頃は、竹内農場は衰退し、農園は小作化していました。直馬一家は小作収入で充分生活が出来たと推測します。

西洋館には電気が引かれてなく、照明はカーバイトによるガス燈火でした。遠くからも青白い光が見えたといいます。また、二階建てのモダンな西洋館は農場から見ても美しく、農民にとってシンボル的な存在でした。吉田茂が兄である直馬の病気見舞いに訪れたという記録もあります。

惜しみない財力を投入した西洋館でしたが、昭和3年(1928)竹内鉱業の廃業に伴い農場運営が困難となり、直馬一家は、農場関係者と共に引き上げたといいます。

その後は農場の管理人塚本氏が西洋館の管理も行ったと考えられます。戦後は戦地から復員した黒田清氏(塚本氏と親戚)が管理しました。空き家となった西洋館に泥棒が入り金目の物は総て盗まれたといいます。例えば便器なども。そういうこともあり、戦前戦後を通して管理目的で家の無い家族を無償で住まわしたといいます。

当時、居住していた人の話では、トイレは便器どころか床もなくなっていて、2枚の板を掛けただけの状態で用を足したといいます。用足しするところは肥溜から高く、とても怖いトイレだったそうです。また、水道設備はなく、隣の稲葉家に竹内農場が掘ったと思われる大きな井戸があり、そこから貰い水をして生活をしていたといいます。

建物の継ぎ目のところから雨漏りがして、水が地下室に入り込み、いつもジメジメしていたそうです。地下室と一階を仕切る床は抜けて、玄関を入ると直ぐに地下室になっているので、ここにも板を掛けて渡ったといいます。普段は裏口から出入りしたそうです。

戦後復員して初めて女化原を見た黒田(西洋館管理人)は、電気が通ってないことに愕然としたそうです。彼は有志を募り、女化電気協和組合を結成し、女化一帯に電線を施設しました。これにより西洋館にもやっと電灯が灯るようになりました。

このような状態の西洋館に、戦前から住まわれた家族は、昭和27年(1952)頃に家を購入し引っ越しされたとのこと。おそらく西洋館にとって最後の居住者だと考えます。

美しかった西洋館は、人が住まなくなり、急速に老化が進み、屋根が落ち床は抜け、御影石の土台と、赤煉瓦の壁面を残して廃屋となりました。昭和60年頃まで、屋根があったという証言がありますので、屋根が落下し、現在の姿になったのはそれ以降と考えられます。そして、その敷地はまるで西洋館の存在を隠すがごとく藪が覆い、半世紀以上が経過し、人々の記憶の中からも消えてしまいました。

こうした状況の中、平成26年(2015)の暮れに、西洋館の敷地が、創設者の竹内家のものから、太陽光発電業者に名義が変わってしまいました。それを受けて龍ケ崎市は急遽、保存調査のために、太陽光発電業者から、その土地を3年契約で借り受けて、施設工事をストップさせています。

市の調査のため、敷地の藪は刈り取られ、廃屋となった西洋館は再び人々の前に姿を現し、俄かに注目を集めております。

一方、当NPO法人は敷地が第三者に渡った情報を独自に得て、いち早く保存活動を開始しました。

龍ケ崎市による調査の結果は、平成 30(2018)年 4月 21 日に市役所の会議室で報告され、一般市民や関係者の理解と関心を高めました。

これまでに当 NPO 法人は竹内農場西洋館講座や西洋館最後の居住者真中ハツ様をお招きし座談会などのイベント、市・教育委員会協力の下、平成 29(2017)年 9月 3 日「竹内農場西洋館イベント」(市・教育委員会後援)、平成 30(2018)年 11 月 18 日の「竹内農場西洋館 見学会&フォーラム」(市・教育委員会共同主催)、令和元(2019)年 12 月 7 日の「竹内農場西洋館フォーラム」(市・教育委員会協力)を開催しました。 

令和2年(2020)1月22日、龍ケ崎市は「竹内農場西洋館」及び市が保有する「竹内家農園内庭園設計図」ほか竹内家文書を市民遺産に認定しました。

令和2年(2020)3月30日、当NPO法人は竹内農j表西洋館竣工100周年記念冊子「竹対明太郎が残したもの~龍ケ崎の赤レンガ西洋館」を発刊しました。

参考資料 女化 土づくりムラ苦闘百年(エリート情報社) 龍ケ崎市調査報告 /当NPO調査資料

 

現状の赤レンガ西洋館
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