偉大なる竹内明太郎

旧竹内農場西洋館関連

龍ケ崎市若柴町字長山に所在する旧竹内農場西洋館の保存運動に拘わるようになり、その歴史を調べる過程で、竹内明太郎という偉大な実業家を知ることとなりました。
明太郎は竹内農場の運営者で、その半生は明治から大正にかけての変革の時代、日本を豊かにするために情熱の総てを捧げた熱い男だったのです。
旧竹内農場西洋館の存在を知った当初は、吉田茂の兄という認識しかありませんでしたが、彼の足跡を辿ると、その偉業にただただ驚くばかりであります。今日の日本が先進国の仲間入り出来たのは、彼の力が大きいと考えます。

竹内明太郎は万延元年(1860年)土佐・宿毛(現高知県宿毛市)、伊賀家の藩士竹内綱の長男として生まれます。幼少期は酒井三治の日新館で学びました。この幼少期の精神形成が、のちの明太郎の自己犠牲の精神に少なからず影響を与えていると思われます。そして10歳のとき父の仕事の関係で郷里を離れ、14歳のとき父親と共に上京し、土佐出身の思想家、中江兆民の仏学塾に通うようになります。明太郎の思想形成において、東洋のルソーと称された兆民から多大な影響を受けます。
成人した明太郎は、父親が創業した竹内鉱業の経営を引き継ぎ、最新の技術を積極的に導入し、事業を全国に拡大させます。竹内鉱業は茨城無煙炭鉱(現北茨城市)、佐賀県唐津の芳谷炭鉱、大夕張炭鉱、石川県小松の遊泉寺銅山など全国屈指の優良な銅山や炭鉱をもつ鉱業会社に成長し、全盛期には三井や三菱と肩を並べるほどの勢いがありました。しかし明太郎の思いは、そうした事業拡大とは別の方向に向いていました。
明治33年(1900年)パリ万博を見学したとき、欧州諸国の驚くべき工業力に圧倒され、カルチャーショックを受けます。この経験により国を豊かにするためには、何よりも工業の発展が急務であると考えます。また、いくら優良な鉱山、炭鉱であっても埋蔵資源は限りがあり、いつかは枯渇すると考えます。だからこそ埋蔵資源に頼らずとも生きていける地場産業、とくに機械工業を興すべきだと考えたのです。
明太郎は、明治という富国強兵の時代に、工業化こそが国を豊かにし、西欧列強に追いつく唯一の方法であると考え、人材育成に総てのエネルギーを投入するようになります。そこには自分の会社を大きくするといった発想はまったくなく、国の繁栄と人々の生活が豊かになることだけを願っていたのです。

国を豊かにする事業の一つが明治44年(1911)快進社(ダットサン=日産の前身)の設立です。
明太郎は若き技術者、橋本増治郎の国産車製造に対する熱い思いに応えた形で、快進社の設立を支援します。日産の社歴を見ると、快進社は橋本増治郎を中心に設立と記載してあり、橋本は初代社長を務めています。しかし橋本は技術者であり、会社経営は素人のはず。ようするにDAT(ダットサン)の頭文字である田健治郎、 青山禄郎、竹内明太郎の支援者は、資金的支援だけでなく、会社の設立から運営に大きく関わっていたのです。特に明太郎は3人の支援者の筆頭と考えられます。その理由の一つが、快進社の創業地が吉田茂邸(現・東京都渋谷区広尾)であったことです。(Wikipedia快進社沿革より引用)明太郎が大富豪吉田家の養子となった弟茂に協力を求めていたことが推測出来ます。つまり快進社に身内の土地を提供したのです。もう一つの理由が、のちに明太郎が創業した小松製作所の初代所長が快進社社長の橋本増治郎であったこと。つまり明太郎は橋本増治郎を部下のように使っているのです。この二つの理由で、明太郎こそ快進社設立の中心的存在であったと考えます。しかし、彼は社長のポジションに執着はなく、起業の発起人であり、技術者の橋本を社長に据えたのだと考えます。
快進社設立から3年後に誕生の国産車第一号となるダット号に、明太郎は豊かな日本の未来を託したのではないでしょうか。

世界第2位の機械メーカーになるまで成長した小松製作所(コマツ)は、元々は、竹内鉱業傘下の遊泉寺銅山(石川県小松)内に設立の小松鉄工所(大正6年設立)及び小松電気製鋼所という竹内鉱業の製造部門だったのです。二つの部門はやがて統合され小松製作所となり、のちに竹内鉱業から分離します。
明太郎は埋蔵資源に頼らない製造業の育成という、自身の理念に基づき小松製作所を設立したのです。そのために有能な社員を海外留学させ先進技術を学ばせたそうです。
小松製作所設立以前にも、明太郎は佐賀県唐津の竹内鉱業傘下の芳谷炭鉱内に唐津鉄工所を設立(明治42年)します。現在の(株)唐津プレシジョンで、こちらも優秀な機械メーカーに成長しています。

早稲田大学・西早稲田キャンパスに設置の竹内明太郎之胸像は、コマツの支援で平成23年(2011)に設置されました。その説明文は下記の通りで、明太郎の崇高な思想と無欲な人柄を推察することが出来ます。

竹内は工業立国の理想のもと、多くの優秀な研究者を海外に留学させ、自ら工科学校の創設を計画した。時に早稲田大学では理工科の創設を悲願としており、これを知った竹内は、その育成にかかる研究者のすべてを、本学に譲った。さらに二万九百七十円に及ぶ多大な財政支援を提供した。1908(明治41)年に本学が創設した理工科(現在の基幹理工学部・創造理工学部・先進理工学部)は、こうした竹内の惜しみない協力により、礎が築かれたのである。
本学では、1924年(大正13)年、竹内に「校賓」の名称を贈呈し、1993(平成5)年に「竹内記念ラウンジ」(55号館)を、2008(平成20)年に「竹内明太郎 記念会議室」(63号館)を設置した。
理工学部の「最大の恩人」と称えられた、竹内の多大な功績を顕彰するため、ここにその胸像を建立する。
なお、胸像の建立に際しコマツより、全面的なご支援をいただいたことに感謝申し上げたい。

以上、説明文を一部割愛し、原文のまま記載しました。大隈重信が後々まで明太郎に感謝し、「無名の英雄」と称えたといいます。早稲田大学理工科創立と同じ年に、明太郎は郷里の高知にも「工業富国基」の信念に基づき、私立高知工業学校を創立します。既成の教育方針を否定し、全国初の5ヵ年制、完全にオリジナルなカリキュラムを組む優れた工業学校となります。現在の高知県立高知工業高等学校です。

数々の偉業を成し得た明太郎でしたが、晩年は悲劇が襲います。竹内鉱業は炭鉱不況と昭和金融恐慌のあおりを受け、昭和3年(1928)立ち行かなくなり廃業となります。明太郎は竹内鉱業の負債を背負い、借金返済のため無一文となります。そして心労がたたり肺を患い病床に伏せることが多くなります。その年、病気は回復することなく、この世を去ります。享年68歳でした。

明太郎が父から受け継いだ会社は、明太郎の死と共に幕引きとなりましたが、明太郎が未来を見据えて設立した会社は、今も脈々と受け継がれ、世界レベルで繁栄しています。
確かな先見の眼を持ちながらボタンの掛け違いにより、晩年不遇に陥った明太郎。本来なら彼の偉業は世間からもっと認められ、誰もが知りうる存在であったはずなのに。これも自分の名声を望まなかった明太郎らしさかもしれません。
まさに「沈黙の巨星」ここにあり。

NPO法人龍ケ崎の価値ある建造物を保存する市民の会
理事長 前田享史

参考文献:北國新聞社出版局 「沈黙の巨星~コマツの創業の人・竹内明太郎伝」
松岡周平コラム風聞異説  Wikipedia