旧竹内農場西洋館

所在地 茨城県龍ケ崎市若柴町(字長山)2240-860他 (現状は廃屋 /立ち入り禁止)

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大正時代、蛇沼の沼畔に小松製作所の創業者であり、日産(ダットサン)の創業者の一人でもある竹内明太郎が経営していた竹内農場がありました。そして農場主の住居として建てられたモダンな赤レンガの西洋館は竹内農場のシンボル的存在で東京から有力な政財界人を招いたといいます。竹内明太郎の弟である吉田茂(戦後の総理大臣)も訪れたという記録も残っています。
そして1世紀近くの年月が流れ、モダンだった西洋館は床は抜け屋根は朽ち落ち、今は見る影もなくレンガ壁のみを残す状態で廃墟となっております。
この歴史ある西洋館が太陽光発電施設の進出で存続が危うくなっています。当NPO法人はこの建物の復元保存を願うと共に、史跡として、文化財としての価値を市民にアピールし、保存運動の大きなネットワークを創生したいと考えております。

竹内農場

稲敷郡馴馬村大字若柴字長山(現龍ケ崎市若柴町字長山)の地は西に蛇沼を有し、長さ2.5キロ、幅200メートルほどの細長い土地で、明治末期までは松と椚の混合林からなる約134町歩の官有林で、未開拓の土地でした。
この未開の地は明治45年(1912)5月一旦国から馴柴村に払い下げられた後、同年12月に、馴柴村から竹内綱と土田謙吉に共有の形で売却・登記されました。そして大正時代、その土地に竹内綱によって竹内農場が開設され、蛇沼のほとりに二階建ての赤レンガ西洋館が建てられます。農場の事実上の経営は長男の明太郎が行いました。
農場の周囲には土手がめぐらされ、からたちの木が植えられ、東側の農場入口から桜並木が続いていたといいます。大正3年作成の『竹内家農園内庭園設計図』によると、別邸の南側は芝生が広がり、西側の蛇沼に至るところには、梅林や桃林があり、沼にほとりには四阿(アズマヤ)が設けられ、乗船場まであって、舟遊びの趣向まで加えられていました。まさに桃源郷そのもので、東京から宮様や著名な政財界人を迎え、農夫に茸を植えさせて茸狩りしたそうです。竹内農場の経営は採算を度外視したものであったようで、そこでは最新の農業機械と技術が取り入れられ、様々な実験が行われていたようです。
当時の『竹内農場分割図』を見ると、西洋館の東側に一反歩区画の畑地が10枚並び、他に桑園、桐畑が見えます。一反歩区画の畑地はいわば農事試験圃で、国光亀治という支配人により次々と新しい試みがなされました。
梨、桃、栗、落花生、白菜、西瓜などが作られ、そのうち黄色い西瓜は大変な話題になり、直売も行われたといいます。
西洋館の南側は放牧場で、牛乳取扱所、牛舎、厩舎、堆肥舎、第一、第二農夫舎、便所、浴場、事務室、農具舎、収容舎、住宅などが並んでいました。
竹内農場の作物、大麦、小麦、甘藷、馬鈴薯などは竹内綱が経営する県北の炭鉱に送られていました。大正8年頃が最盛期で、鉄道を引く計画もあり、実際線路材も運ばれ積まれていました。
しかし、大正末期の炭鉱不況のあおりで、竹内農場も経営不振にとなり一部耕作地と西洋館を残して売却あるいは小作に任せたりして、関係者も昭和5、6年頃に東京へ引き上げていきました。

調査:郷土史研究家 鈴木 久氏(当NPO法人顧問理事)

赤レンガ西洋館

赤レンガの西洋館は、竹内農場のシンボルとして大正8年(1919)竹内綱によって建てられました。1階が10間半と4間という大きな建物で、地下室もあり、養蚕用の貯桑室に使われていたそうです。
夜になるとカーバイトによりガス燈が灯され青白い光が遠望されたといいます。モダンで美しいこの建物も、屋根は朽ち落ちて壁は壊れ今は見る影もなく廃屋となって、藪の中に埋もれた状態です。瓦の欠片には三河三州瓦で「三河 碧海郡高濱町 木村清太郎」と彫り込んだ文字が読み取れます。
この赤レンガ西洋館は竹内明太郎の住居にもなっていて、やがてその四男・直馬の家族も住むようになります。明太郎の弟にあたる吉田茂が、病身の甥・直馬を見舞いに訪れたといいます。また、直馬の長男精一の手紙では、旧龍中の二人の先生が下宿し、そのうち一人は後に吉田茂に愛され、サンフランシスコ講和会議に吉田の随員となった林知彦だったと記されています。

調査: 鈴木 久氏

竹内明太郎(1860-1928)

明治大正時代の政治家であり実業家。機械メーカーの大手小松製作所の創業者であり、自動車メーカーの大手日産の前身ダットサンの創業者の一人。ダットサン(DAT)のTは竹内明太郎の頭文字です。そして、父は竹内綱、弟は吉田茂、甥は文学者の吉田健一という家柄です。
高知県出身。明治6年(1873)父である竹内綱の大蔵省勤務とともに上京して東京同文社や仏学塾で英・仏語や自由民権思想を学びました。 やがて自由党に入って東京絵入新聞を刊行に携わりました。明治19年(1886)父から佐賀県の芳谷炭坑の経営を任せられました。そして明治27年(1894)竹内鉱業を設立。 茨城・福島・北海道など全国各地で炭坑や鉱山の開発を行ってその経営に当たりました。
度々欧米視察して工業の実態を研究。明治35年(1902)頃から青年技術者を欧米留学させたり、自分で設立予定の工科大学の教授陣の養成を始めました。 そのころ、早稲田大学でも理工学部の新設を考えていたが、教授陣の確保の最大の難点があり、それを知った明太郎は、養成していた学者をそっくり早稲田に提供、その給料を数年間も負担しました。 こうして明治42年(1909)早稲田の理工科本科の始業式が行われたのです。明治45年(1912)高知工業学校、大正5年(1916)唐津鉄工所、大正15年(1926)小松製作所を設立するなど工業教育と産業教育の振興に大きな貢献をしました。 その間、大正4年(1915)、大正6年、大正9と衆議院議員に当選。政友会に属して高知県への鉄道の普及に尽力しました。

参考文献 コンサイス日本人名事典

竹内綱(1840-1922)

吉田茂の父であり、文学者の吉田健一の祖父であり元総理麻生太郎の曾祖父に当たり、明治時代に活躍した政治家であり実業家。
天保10年(1840)土佐藩家老・山内氏(伊賀氏、宿毛領主)の家臣・竹内庄右衛門吉管の子として土佐国宿毛に生まれました。23歳で目付役として大坂に宿毛蔵屋敷を建てるなど、主家の財政再建に尽力し、若くして実業家としての才能を発揮しました。
慶応2年7月(1866年8月)阿満地浦(現在の安満地浦)にイギリス軍艦が停泊した時には、異国船の重装備を目の当たりにして当方に勝ち目なしと思った綱は、単身軍艦に乗り込み、言葉の通じない相手と悪戦苦闘の談判に及んだそうです。その時敵と飲酒したことから竹内は切腹処分となるところ、土佐藩がイギリス軍艦を歓待したことが判明したため、のちに放免となっています。
明治に入ってから後藤象二郎の引き立てにより大阪府少参事や大蔵省六等出仕をつとめます。明治7年(1874)後藤から蓬莱社の高島炭鉱を経営を任され、鉱山開発に努めます。明治14年(1881)後藤の借財返済のためこれらの炭鉱を三菱の岩崎弥太郎にやむなく譲渡します。同年、板垣退助を総裁とする自由党が創設され、竹内も参加します。明治15年(1882)板垣が暴漢に襲われた「板垣死すとも自由は死せず」という名文句を吐いたとき時、彼を抱きかかえたのは竹内綱でした。
第1次伊藤内閣は広がりつつあった自由民権運動に危機感を抱き、明治20年(1887)12月25日に保安条例を公布し、竹内はこの適用を受け東京から3年間の退去を命ぜられる。このとき彼が退去先として身を寄せたのが横浜太田町(現在の神奈川県横浜市中区)にある吉田健三邸でありました。
明治23年(1890)には第1回衆議院議員総選挙に立候補して当選し、自由党土佐派を率いました。しかし、在職はわずかに一期で、次期選挙には再出馬を断っています。一方で、明治25年(1892)の第2次伊藤内閣誕生とともに、伊藤博文首相・板垣退助を説いて政府と議会多数派自由党との連携を策しています。
実業家として芳谷炭坑や茨城炭鉱を経営し、明治29年(1896)には京仁鉄道や京釜鉄道の専務理事として活動しました。明治34年(1901)、京釜鉄道の常務取締役となり、2年後の明治36年(1903)には京仁鉄道を京釜鉄道に合併して、朝鮮における鉄道事業の統合を実現させています。

参考文献 wikipedia