旧竹内農場西洋館

所在地 茨城県龍ケ崎市若柴町(字長山)2240-860他 (現状は廃屋 /立ち入り禁止)

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大正時代、蛇沼の沼畔に小松製作所の創業者であり、日産(ダットサン)の創業者の一人でもある竹内明太郎が経営していた竹内農場がありました。そして農場主の住居として建てられたモダンな赤レンガの西洋館は竹内農場のシンボル的存在で東京から有力な政財界人を招いたといいます。竹内明太郎の弟である吉田茂(戦後の総理大臣)も訪れたという記録も残っています。
そして1世紀近くの年月が流れ、モダンだった西洋館は床は抜け屋根は朽ち落ち、今は見る影もなくレンガ壁のみを残す状態で廃墟となっております。
この歴史ある西洋館が太陽光発電施設の進出で存続が危うくなっています。当NPO法人はこの建物の復元保存を願うと共に、史跡として、文化財としての価値を市民にアピールし、保存運動の大きなネットワークを創生したいと考えております。

竹内農場

稲敷郡馴柴村大字若柴字長山前(現龍ケ崎市若柴町字長山前)は西に蛇沼を有し、明治末期までは女化原といわれる未開拓の地でした。
明治45年(1912)、土佐藩出身の政治家であり実業家の竹内綱はこの未開の地の一部を、土田謙吉と共同で馴柴村から購入しました。竹内分は80町1反9畝あり、名義は良三(明太郎次男)、廣(綱七男)、直馬(綱四男)の三分割登記されていました。
そして大正時代、その土地に綱の事業を引き継いだ竹内明太郎(綱長男)が、竹内鉱業の付属施設として農場を開設します。

龍ケ崎市の調べにより明太郎の日記が宿毛市の資料館に保管されていることが分かり、その中から当農場に関係する部分のコピーを取り寄せたとのこと。これにより新事実が次々と判明しております。日記によると、明太郎は多忙の中でも妻の亀井と共に度々ここを訪れております。竹内鉱業は他にも農場を抱えており、関係者は当地の農場を牛久農場と呼んでいました。これにより最寄り駅が牛久だったことが推定出来ます。距離的には佐貫駅が近いはずですが、牛久駅を利用したのは道が平坦で、明治17年(1884)明治天皇女化行幸の際、臨幸道として道が整備されていたからでしょう。

農場の目的は、竹内鉱業傘下の茨城無煙炭鉱(現・北茨城市)への食糧供給であるとともに、西洋を模倣した近代的な農場経営の試みでした。諸々の農場運営は農業大学出の国光亀治支配人が行いました。国光は四頭引きの洋式犁を用いた大農場経営を試みたようです。10人程の農夫を雇用し、そのほかに日雇い農夫もいました。農夫の大部分は貧窮する女化開拓民を雇ったようです。こうして生産された大麦、小麦、甘藷、馬鈴薯が茨城無煙炭鉱に送られました。当時の茨城無煙炭鉱は常磐炭田南部の中で最大規模を誇り、炭鉱に従事する人と家族を合わせて総勢4,000人を超える大所帯だったといいます。
農場は西洋館の東側に一反歩区画の畑地が10枚並び、他に桑園、桐畑がありました。一反歩区画の畑地はいわば農事試験圃で、国光により次々と新しい試みが行われました。梨、桃、栗、落花生、白菜、西瓜などが作られ、そのうち黄色い西瓜は大変な話題となり、直売も行われたといいます。西洋館の南側は放牧場で、牛乳取扱所、牛舎、厩舎、堆肥舎、第一、第二農夫舎、便所、浴場、事務室、農具舎、収容舎、住宅などが並んでいました。
農場の周囲は土手がめぐらされ、からたちの木が植えられ、東側の農場入口から桜並木が続いていたといいます。

農場は大正8年頃が最盛期で、鉄道を引く計画もあり、実際線路材も運ばれ積まれていました。しかし、大正末期の炭鉱不況のあおりで、大正13年頃は農場は小作化し小作料だけが竹内家の収入となっていました。昭和3年(1928)農場の運営母体である竹内鉱業が廃業となります。それに伴い農場は小作人に任せて、関係者は昭和5、6年頃に東京等へ引き上げていきました。
その後、農場の納税管理人は馴柴村役場の紹介により八原村の塚本幸三郎氏が行いました。戦後GHQの政策により、農地の総ては小作人に譲渡され、竹内農場は完全に消滅しました。

参考資料 女化 土づくりムラ苦闘百年(エリート情報社)/ 龍ケ崎市調査報告

赤レンガ西洋館

竹内明太郎によって建てられた赤煉瓦の西洋館。大正8年(1919)9月に着工し、翌年の夏に完成しております。総工費は当時の価格で7万といいます。工事を請け負ったのは大田圓七建築部(東京市芝区西久保八万町)で、設計者は一流の建築家が想定されますが、現時点では解明されておりません。
煉瓦の積み方はオランダ積み(イギリス積み変形)で、産地は刻印により上敷免製であることが分かりました。これは渋沢栄一が深谷に設立した日本煉瓦製造で作られた、当時の国内最上級品ブランドです。

西洋館は、今までは竹内農場に付随する施設と考えられていましたが、明太郎の日記により、明太郎自身の別荘であることが判明しました。大正13年(1924)になると、明太郎の弟竹内直馬(綱四男)が所有し、直馬一家の住居となります。恐らく直馬一家は関東大震災で被災し、兄の明太郎より別荘を譲り受けたものと考えられます。直馬一家が越して来た頃は、竹内農場は衰退し、農園は小作化していました。直馬一家は小作収入で充分生活が出来たと推測します。

西洋館には電気が引かれてなく、照明はカーバイトによるガス燈火でした。遠くからも青白い光が見えたといいます。また、二階建てのモダンな西洋館は農場から見ても美しく、農民にとってシンボル的な存在でした。吉田茂が兄である直馬の病気見舞いに訪れたという記録もあります。

惜しみない財力を投入した西洋館でしたが、昭和3年(1928)竹内鉱業の廃業に伴い農場運営が困難となり、直馬一家は、農場関係者と共に引き上げたといいます。

その後は農場の管理人塚本氏が西洋館の管理も行ったと考えられます。戦後は戦地から復員した黒田清氏(塚本氏と親戚)が管理しました。空き家となった西洋館に泥棒が入り金目の物は総て盗まれたといいます。例えば便器なども。そういうこともあり、戦前戦後を通して管理目的で家の無い家族を無償で住まわしたといいます。

当時、居住していた人の話では、トイレは便器どころか床もなくなっていて、2枚の板を掛けただけの状態で用を足したといいます。用足しするところは肥溜から高く、とても怖いトイレだったそうです。また、水道設備はなく、隣の稲葉家に竹内農場が掘ったと思われる大きな井戸があり、そこから貰い水をして生活をしていたといいます。

建物の継ぎ目のところから雨漏りがして、水が地下室に入り込み、いつもジメジメしていたそうです。地下室と一階を仕切る床は抜けて、玄関を入ると直ぐに地下室になっているので、ここにも板を掛けて渡ったといいます。普段は裏口から出入りしたそうです。

戦後復員して初めて女化原を見た黒田(西洋館管理人)は、電気が通ってないことに愕然としたそうです。彼は有志を募り、女化電気協和組合を結成し、女化一帯に電線を施設しました。これにより西洋館にもやっと電灯が灯るようになりました。

このような状態の西洋館に、戦前から住まわれた家族は、昭和27年(1952)頃に家を購入し引っ越しされたとのこと。おそらく西洋館にとって最後の居住者だと考えます。

美しかった西洋館は、人が住まなくなり、急速に老化が進み、屋根が落ち床は抜け、御影石の土台と、赤煉瓦の壁面を残して廃屋となりました。昭和60年頃まで、屋根があったという証言がありますので、屋根が落下し、現在の姿になったのはそれ以降と考えられます。そして、その敷地はまるで西洋館の存在を隠すがごとく藪が覆い、半世紀以上が経過し、人々の記憶の中からも消えてしまいました。

こうした状況の中、平成26年(2015)の暮れに、西洋館の敷地が、創設者の竹内家のものから、太陽光発電業者に名義が変わってしまいました。それを受けて龍ケ崎市は急遽、保存調査のために、太陽光発電業者から、その土地を3年契約で借り受けて、施設工事をストップさせています。

市の調査のため、敷地の藪は刈り取られ、廃屋となった西洋館は再び人々の前に姿を現し、俄かに注目を集めております。

参考資料 女化 土づくりムラ苦闘百年(エリート情報社) 龍ケ崎市調査報告 /当NPO調査資料

 

竹内明太郎(1860-1928)

明治大正時代の政治家であり実業家。機械メーカーの大手小松製作所の創業者であり、自動車メーカーの大手日産の前身ダットサンの創業者の一人。ダットサン(DAT)のTは竹内明太郎の頭文字です。そして、父は竹内綱、弟は吉田茂、甥は文学者の吉田健一という家柄です。
高知県出身。明治6年(1873)父である竹内綱の大蔵省勤務とともに上京して東京同文社や仏学塾で英・仏語や自由民権思想を学びました。 やがて自由党に入って東京絵入新聞を刊行に携わりました。明治19年(1886)父から佐賀県の芳谷炭坑の経営を任せられました。そして明治27年(1894)竹内鉱業を設立。 茨城・福島・北海道など全国各地で炭坑や鉱山の開発を行ってその経営に当たりました。
度々欧米視察して工業の実態を研究。明治35年(1902)頃から青年技術者を欧米留学させたり、自分で設立予定の工科大学の教授陣の養成を始めました。 そのころ、早稲田大学でも理工学部の新設を考えていたが、教授陣の確保の最大の難点があり、それを知った明太郎は、養成していた学者をそっくり早稲田に提供、その給料を数年間も負担しました。 こうして明治42年(1909)早稲田の理工科本科の始業式が行われたのです。明治45年(1912)高知工業学校、大正5年(1916)唐津鉄工所、大正15年(1926)小松製作所を設立するなど工業教育と産業教育の振興に大きな貢献をしました。 その間、大正4年(1915)、大正6年、大正9と衆議院議員に当選。政友会に属して高知県への鉄道の普及に尽力しました。

竹内明太郎についてもっと詳しくは こちらをclick

参考文献 コンサイス日本人名事典

 

竹内綱(1840-1922)

吉田茂の父であり、文学者の吉田健一の祖父であり元総理麻生太郎の曾祖父に当たり、明治時代に活躍した政治家であり実業家。
天保10年(1840)土佐藩家老・山内氏(伊賀氏、宿毛領主)の家臣・竹内庄右衛門吉管の子として土佐国宿毛に生まれました。23歳で目付役として大坂に宿毛蔵屋敷を建てるなど、主家の財政再建に尽力し、若くして実業家としての才能を発揮しました。
慶応2年7月(1866年8月)阿満地浦(現在の安満地浦)にイギリス軍艦が停泊した時には、異国船の重装備を目の当たりにして当方に勝ち目なしと思った綱は、単身軍艦に乗り込み、言葉の通じない相手と悪戦苦闘の談判に及んだそうです。その時敵と飲酒したことから竹内は切腹処分となるところ、土佐藩がイギリス軍艦を歓待したことが判明したため、のちに放免となっています。
明治に入ってから後藤象二郎の引き立てにより大阪府少参事や大蔵省六等出仕をつとめます。明治7年(1874)後藤から蓬莱社の高島炭鉱を経営を任され、鉱山開発に努めます。明治14年(1881)後藤の借財返済のためこれらの炭鉱を三菱の岩崎弥太郎にやむなく譲渡します。同年、板垣退助を総裁とする自由党が創設され、竹内も参加します。明治15年(1882)板垣が暴漢に襲われた「板垣死すとも自由は死せず」という名文句を吐いたとき時、彼を抱きかかえたのは竹内綱でした。
第1次伊藤内閣は広がりつつあった自由民権運動に危機感を抱き、明治20年(1887)12月25日に保安条例を公布し、竹内はこの適用を受け東京から3年間の退去を命ぜられる。このとき彼が退去先として身を寄せたのが横浜太田町(現在の神奈川県横浜市中区)にある吉田健三邸でありました。
明治23年(1890)には第1回衆議院議員総選挙に立候補して当選し、自由党土佐派を率いました。しかし、在職はわずかに一期で、次期選挙には再出馬を断っています。一方で、明治25年(1892)の第2次伊藤内閣誕生とともに、伊藤博文首相・板垣退助を説いて政府と議会多数派自由党との連携を策しています。
実業家として芳谷炭坑や茨城炭鉱を経営し、明治29年(1896)には京仁鉄道や京釜鉄道の専務理事として活動しました。明治34年(1901)、京釜鉄道の常務取締役となり、2年後の明治36年(1903)には京仁鉄道を京釜鉄道に合併して、朝鮮における鉄道事業の統合を実現させています。

参考文献 wikipedia