国有形登録文化財旧小野瀬邸

所在地 龍ケ崎市龍ケ崎市上町4252 (内部の見学は不可)

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平成14年(2002)、上町の旧小野瀬邸が競売となり存続が危ぶまれる事態となりました。これをきっかけに当NPO法人の前身「龍ケ崎の価値ある建造物を保存する市民の会」が発足しました。そして、保存のための運動を展開する中において、龍ケ崎市内の在住の菅井氏が同邸の所有者となられ、幸いにもその姿を留めることができました。そして当会は文化財としての価値を調査をし、登録文化財申請のお手伝いをしました。また、様々なイベントを開催し、古い建物の素晴らしさをアピールして来ました。そして平成17年(2005)龍ケ崎市第一号となる国有形登録文化財に認定され、私たちの活動の大きな成果となりました。

現在は所有者の住居となっているためイベントや見学は出来ません。

旧小野瀬邸イベントの詳しい情報はこちらをご覧ください。

千鰯商人小野瀬家、筆屋新助と筆屋忠兵衛

近世中期以降、自給肥料にかわり金肥(きんぴ)が用いられ、とくに干鰯・〆粕などは綿作には欠かせない肥料で、この干鰯商人として産をなしたのが上町の小野瀬忠兵衛家です。初代は筑波の麓北条(ほうじょう)の人と伝えられ、すでに寛政年問(1790年代)には商いを始めていたようで、その子新助は若くして家督を経ぎ、筆墨、米殻を商い、天保年間(1830年代)30代で一代にして「巨金之富」を築きました。文久2年(1862)年には筆屋(ふでや)新助(しんすけ)として上町天王社(八坂神杜)拝殿再建の7人の世話人に名を連ねて多額の寄進を行い、仙台藩御用達の12名の豪商にも小野瀬新助の名が見えます。新助はすでに弘化4年(1846)、長女に養子を迎え忠兵衛(2代)を襲名させ、早世した長男新吉の跡には孫娘に藤蔵河岸の回漕問屋から養子を迎えました。明治27年発行の『城南四郡名家揃』には「絞油製造業、肥料・塩・衡器販売所筆屋小野瀬忠兵衛(3代)」と「和漢洋書籍・酒類・肥料販売筆屋小野瀬謙次郎」(小野瀬昇氏曾祖父)がそれぞれ筆屋として肩を並べています。

龍ケ崎の筆忠

3代忠兵衛は明拾39年、龍崎農商銀行の創立発起人に、のち頭取、4代忠兵衛は肥料・塩元捌,度量衡販売に加え、スタンダード石油代理店となり「龍ケ崎の筆忠」として知られ、龍崎農商銀行が五十銀行(常陽銀行の前身)と合併するや同行取締役となり、5代忠兵衛は戦後衆議院議員をつとめ、龍ケ崎の発展のため尽くしました。

登録文化財旧小野瀬邸

今上町に残る小野瀬忠兵衛邸の道路に面する店舖は4代忠兵衛による大正13年建築(棟梁天野源吉)で龍ケ崎地方の経済発展の歴史を伝える価値ある建造物です。平成16年3月4日、小野瀬邸は店舗と明治初期の建築と鑑定された母屋の2点が登録有形文化財に登録され、その証書が交付されました。小野瀬昇家には弘化3年(1845)の「本屋敷普請帳」、安政6年(1859)、文久2年(1862)の「普請入用帳」が残されているのをみると何回かの改築が行なわれ、母屋の大部分は文久2年の普請によるものかもしれません。
実はごく最近になって、大正9年11月作成の「小野瀬家新築設計図」(第1号~第5号、縮尺100分ノ1)を含む9点の設計図と店舗・母屋「東側建図」(60分ノ1、青焼)1点が発見されました。「東側建図」を見ると設計段階では店舗・母屋総二階の豪華な造りになっており、恐らく震災のため、新築は店舗のみにとどまったと思われます。

店舗は、大通りに面した木造2階建て一部平屋、間口5間、奥行3間、建築面積210㎡あります。大正時代初期の建築物です。 奥に母屋があり、木造平屋建て、建築面積は65㎡。幕末から明治初期の建築物で老朽化が著しく、近年所有者によって修繕されました。